日本共産党による自治会に対する組織的な指導・介入の実態 2/4


東京大学教養学部学生自治会の全学連脱退の中心にしたX氏による、自治会に関与していた日本共産党との決別に至った経験と心の変化を記した手記です。資料によると2012年3月28日の「常任委員会資料」に添付されていたもののようです。長文ですので4分割して公開します。


登場人物

・学生側:X氏、Z氏、Q氏、M氏、A氏、B氏、C氏、D氏、V氏、L氏、J氏、E氏、F氏

・日本共産党及び関連団体関係者:T氏、S氏、I氏、N氏、II氏、H氏、Y氏

*国政選挙への立候補歴があったり、公党及び関連団体の役員であったりするため、基本的に「準公人」、あるいは「みなし公人」と捉えられてもおかしくないが、ここでは個々人のプライバシーを配慮してアルファベット表記とする。これらがイニシャルであるかは明言しない。なお、国会議員や地方議員に関しては今回の一連の出来事に関与がない範囲では氏名を明記する。


私が体験した日本共産党による組織的な学生自治会に対する指導・介入

 指導・介入を受け入れる背景に至るまで包括的に理解してもらうために,私と日本共産党との関係についても部分的に言及する。

 大学での民青同盟・日本共産党との出会いは、入試の時からであった。2009年(注:「2010年」の間違い?)2月、東京大学駒場1キャンパスで行われた前期試験で、1日目に駅に降りた際、民青同盟の旗を掲げてパンフを配っている人達に出会い、私はパンフをもらいながら「がんばってください」と声をかけた。声をかけた相手は、後に、日本共産党東京都委員会青年学生部のS氏だとわかる。試験途中の昼食時間になり、知り合いもおらず、重く沈んだ試験場から出ようと思い、正門前に民青同盟のブースが出ているのを発見した。民青同盟のブースで、そこにいた人達とおしゃべりをしながら昼食を食べた。そのとき現場にいたのは、現在の民青同盟東京都委員長I氏、現在の日本共産党東京都委員会青年学生部員N氏、そのほか学生・院生数名であった。そこであたたかく対話を受けた自分は、それまで日本共産党に信頼を抱いていたこともあり、民青同盟に自分の居場所を見つけた。2日目の試験終了後には、民青同盟の活動家とともに署名を集めるまでになり、現在都学連三役を努めている2人の学生と、S氏に、駒場東大前駅西口外のそば屋でそばをおごっていただいた。そこで、社会のこと、政治のことなど話し合い、そして、自治会便覧2009をもらった。これが、自治会活動との接点だった。ちなみに、このときの署名活動では、声を張り上げたのだが、1筆も集まらなかった。その当時は「みんな急いでいるから」と合理化したが、今にして思えば、国民の中の、党派的活動への忌避感が署名への協力を敬遠させたのだと思う。ちなみに、そのとき訴えていた署名は、全日本学生自治会総連合が提起する学費署名である。

*下線部は東大全学連研究会追記

 帰りの飛行機の中で自治会便覧2009を読了。大学をとりまく諸問題について、明快な解説が加えられており、すっきりと読めた。とくに、革マル派を批判する内容が、説得力があり、よく納得できた。

 3月、合格発表は、I氏に電話で伝えてもらった。合格だった。実は、前期試験の際、体調が全くすぐれなかった。しかし、民青同盟のブースで明るく話し合い、励ましてもらったこともあり、私は、それ以降、民青同盟のおかげで東大に受かった、という感謝の念を抱くようになる。

 その後、上京し、N氏とI氏とにあい、はじめて、民青班と共産党学生支部で使っているマンションの1室―「11階」―に案内されることになる。そこで入試時に激励してもらったお礼として山口のおみやげを渡した。また、新生活スタートにあたり、買い物などをするのに自転車がないのに困っていたので、どうにかならないかと相談したところ、民青班の自転車を貸してもらえることになった。これにも私はいたく感謝した。

 4月以降は、民青の新歓イベントにほぼすべて参加する日々を送ることになる。とくに、ほぼ勧誘する側として活動していたことが特徴的であった。4月1,2日の諸手続・テント対話では、もっぱらお茶だしや対話の相手などをつとめた。そのさいに、現在民青同盟駒場班LCを努めている2人の加盟も立ち会った。それ以降の新歓イベントでも、民青同盟の魅力と日本共産党への期待を他の新入生に語ったり、新入生にお茶を出して親交を深めたりした。自分は、その中に、ますます自分の居場所を見つけるのであった。

 同時期、東大教養自治会の活動にも参加してゆくことになる。まず、諸手続の際に、L常任委員に「自治会便覧をすべて読みました」と声をかける。ちなみに、このとき、直前に、民青のI氏から、自治会のブースに委員長がいるから声をかけてみてほしい、といわれていたが、皆忙しそうだったので他の人に声はかけなかった。しかし、民青のテントで対話をしていたとき、I氏の案内で、当時の委員長が、私に会おうと、諸手続を抜けて駆けつけてきたのを覚えている。

 また、このころ、民青の紹介で自治会に入ったといわないでほしい、と当時の前自治会委員長からメールで厳命された。

 4月5日頃だっただろうか、放課後の自治会ガイダンスに参加しようと、学生会館3階の学生自治会室を訪れた。そのとき、参加者は、ほかにVくんというその後常任委員を2期務める人と自分の2人だけであった。ただ、自治会室は、雑然としたゴミと文書の山で埋め尽くされており、レベルの高い活動をしているのだろうという私の期待は完全に裏切られた。自治会ガイダンスそれ自体も、全く準備はなされておらず、当時の役員が自己紹介をして、「なにやろっかー」などと当事者意識ゼロなことを自分たちの内輪で話しておわり、新入生2人はほったらかし、というものであった。ただ、そこで私は失望して離れる道は選ばなかった。怠惰な自治組織の有害無益を中学時代の経験から身にしみて感じていたので、放っておけなかったからだ。東大教養自治会の抜本的改革の必要性を痛感したのはこのときからである。自治会の活動を積極的に手伝うようになってゆく。しかし、自治委員連絡会や代議員大会の運営は破滅的で、レジュメの間違い、配布物の不足、係員の連携不足、騒然とした雰囲気、遅延する時刻、学生のレベルから離れ去ったセンス・レベルの文書やビラなどなど学生から「低脳集団」とののしられるほどだった。多くの学生は自治会執行部を見下し、自治会活動そのものから離れていった。しかし、それでいて危機感に薄いのが当時の執行部の特徴であった。目線が内側に向いており、執行部全体で閉じこもっていたと言っていいだろう。それは奇しくも、その後感じる民青同盟・日本共産党の性質とそっくりであった。これは,「思想信条の自由」論の悪用が自治会の現場に建前でしか議論できない風潮をもちこみ,「お花畑」化させていたことを示している。

 学友会にも興味を持ち、S氏に「学友会もがんばっているのですね」と話したところ、「そうだねー。でも学友会はいろんな人がやってるから、やっぱり自治会だよ」という答えであった。(1)学生自治会は一定の人達(同盟員,共産党員)がやっているという認識がある (2)「いろんな学生」がやっているのは都合が悪いこと ―という、共産党の学生自治団体観が端的に表れている一言だった。

 5月、千駄ヶ谷にて、日本共産党の大演説会が開催され、参加する。大演説会会場前で、学生九条の会のカンパ集めに参加し、後からきた同学年の同盟員から「すげー」などと見上げられた。このころから、同学年の中で、いかに活動家として出世するか、ということを自分の中で強く追求するようになっていったと思う。しかし、それは、一般社会からの脱落と小集団への没入の始まりであった。演説会終了後、都党で新入生同盟員の入党申し込みに立ち会った。その年度、駒場学生支部初めての新入党員だったはずだ。

 また、この頃までに、学習会や街頭労働相談ボランティアで、日本共産党東京都委員会青年学生部長、党准中央委員のT氏と知り合うことになる。

 2010年5月、大学予算問題にかんする「作戦会議」が11階で行われた。参加したのは、専従のS氏、(T氏はいたかどうか記憶が定かでない)当時の自治会委員長、当時の全学連委員長、そして私であった。東大での大学予算削減反対の運動を、全国学生が決起するきっかけとして重視しよう、大学予算シンポジウムを開催し、それへの東大生の参加組織を通して、東大生のなかでの大学予算削減反対運動の担い手をあぶり出そう、などと話し合われ、そのほか、シンポジウムの日時やシンポジストが決められた。これは、私がほぼ初めて経験した、日本共産党による学生自治会への一方的指導であったが、私は全く違和感を持たなかった。民青同盟から自治会活動に紹介され、執行部入りしたことで、民青と自治会が組織的に親和性を持つものだという感覚があったし、単に、ふつうの執行部員よりも早く多くのことを知ることができる、という優越感があった。このときからすでに「秘密工作」への自然な没入が始まっていたといえよう。また、このころから、資格のない党員並の活動家として党機関から認識されるようになる。

 この直後、2010年6月10日に開催された第120期代議員大会夜の部で、当時のE副委員長が、質問の答弁で、自分がいる間は、自治会に対して特定党派が指導するようなことは許さない、という旨のことを述べた。これを聞いて、その場の私と当時の委員長は目を見合わせて縮こまった。これをきっかけに、党外の人への警戒感、内向きの秘密指向が自然と強まるようになる。

 2010年6月のかなり早い段階で、私の自治会副委員長への立候補が、執行部内や、共産党支部の中で、自然に決まっていた。その段階で、11階で行われていた班会のそばで、S氏から聞き取りを受けた。現在の自治会の問題点などを話した記憶がある。S氏からは、私の問題意識への同意があったほか、当時の委員長が、執行部に展望を示せていないことが問題だという指摘があった。

 一方、このとき、自治会の方では、当時の委員長の続投に、周囲の2年生執行部員から、否定的な意見が噴出した。彼自身の失策無能ゆえだったが、これに党機関は東大教養自治会の党支配が揺らぐと考えたのか、相当に体勢を整えて「対応」した。候補擁立の直前は、連日11階にS氏、T氏と駒場学生支部長(法学部3年、当時)とが詰め、当時の委員長と作戦会議を行っていた。一度当時の委員長にその会議に連れて行かれたものの、党機関職員にやんわり追い出された経験がある。作戦会議の内容は、おおむね、いかに執行部に現委員長の続投を理解してもらうか、ということだった。そのなかでは、日本共産党東京都委員会常任委員のII氏の助言もあったと後にS氏から聞いた。これは,東大教養自治会に対して,日本共産党東京都委員会そのものが組織的に指導・介入していることを物語るものである。当初、執行部には、思想信条の違いを前提として一致できる要求で団結する、という主張で通す予定だったが、II氏の助言で、民青同盟で学んだことを自治会で生かしたい、とストレートにいうことで通そうということになったそうだ。しかし,当時の委員長は,自分は,民青と自治会で区別して活動するから理解して欲しい,と執行部に訴えた。こうして、結局は、当時の委員長の続投が決まった。1年生の執行部員の間では、ただただ不可解だ、なぜ続投なのか、という話しで持ちきりだった。ただ、ここで党機関は巧妙に執行部の議論を誘導している。当時の委員長の続投に否定的意見が噴出したのは、その後も正されることはなかった、本人の無能と無責任という問題であったが、いつのまに、民青排除は許されない、という問題にすり替えられているのだ。これは、表面的な議論にならざるをえず、その後の執行部の団結に著しい支障を来すことになる。つまり、民青排除は許されない、と主張されると、表向きは現委員長の続投に反対意見を唱えづらくなる。しかし、心底では現委員長は不適格だという念はのこりつづけ、執行部が心の底から一致して団結することを決定的に妨げた。この一件が、11月の自治会解散騒動を準備したといってもよいだろう。

 これらの議論がはじまったのは、代議員大会終了直後の6月15日常任委員会、そして、擁立議論が上記の通り表面的に決したのは、翌週6月22日常任委員会だった。これらの常任委員会のうち、少なくとも6月22日常任委員会には、都学連役員(農学部4年)がオブザーバとして出席していた。党機関にとって危険な議論が執行部で行われると、常任委員会に都学連・全学連の学生党員の役員がオブザーバとしてやってきて、議論に線をひいてくるのがいつもの手段である。オブザーバだから関係ないと思われるかもしれないが、やはり、日頃の人間関係もあるので、彼らがきている前で、彼らの意に沿わないことは言い出しにくいものなのだ。それゆえ、都学連・全学連役員を常任委員会に派遣するというのは、党機関にとって、ひじょうに有効な手段であった。そして、これは、東大教養学部の学生自治にとっては非常に有害な役割を果たしたといってよい。

 2010年7月、私は、東大教養自治会の副委員長に当選した。この後、私は、さらに、日本共産党員並の活動家として、諸活動に取り組んでゆくことになる。

 自治会正副委員長が当選すると、次の期の活動を担う常任委員をあつめなければならない。私は、この頃、11階で、S氏立ち会いの下、同盟員2名を常任委員にオルグした。ちなみに、後日11階で行われた、2人の入党歓迎会にも参加しており、私からは、自分の父母が来日直後、党市議に助けられた話しを述べ、弱者のためにがんばってほしい、という旨述べている。このうち1名が、のちに私とともに努めた副委員長である。

 ちなみに、毎期の常任委員オルグは、党機関との緊密な連携により行われていた。このときも同様で、当選直後、11階で常任委員オルグの対象者を、党員、同盟員、企画参加者、「大衆」のすべてにわたってリストアップした。それに従い、正副委員長がオルグをすすめ、成否を直ちに専従にメール等で報告していた。

 7月17日だっただろうか、その日の夜、当時の委員長に、文京区のふたき旅館を宿舎にしていた全学連中央執行委員会の宿舎交流に連れて行かれたことがある。遅れて到着したとき、参加者の話題は、(2010年7月参院選の)小池落選残念、ということだった。当時、「これは民青の合宿ではないはずだが…」と事態をうまく飲み込めなかったが、後に、全学連中執はほとんど党員で固めていると知らされる。

 9月、民青駒場班の沖縄スタディツアーに行った。

 参院選の総括が出た二中総のころ、駒場学生支部会議に出席させてもらったことがある。学生支部長からは「共産党員の会議なので出て行ってほしい」といわれたが、「総括を勉強したい」と私がいい、専従も認めたのでそのまま二中総の読み合わせ、感想発表などをした。私が支部会議に出席したのはこれ1回きりである。私と、他の学生党員の線引きは、支部会議に出ないということだった。

 秋頃、S氏に、当時の委員長の無責任を切々と訴えたことがあった。S氏は、私に、このような人物を委員長に据えたことを党として謝罪する、と深く詫びた。しかし、当時の委員長本人から、謝罪を聞くことはついぞなかった。

 11月、赤旗まつりが開催される。このときの志位氏の記念講演に当時の私はいたく感動したものである。また、赤旗まつりで、多くの知り合いに会えたことで、組織内の人間関係の広さに自信を深めた。しかし、この時期、学生自治会では、ある問題が表面化していた。

 学生自治会書記長を6月まで務めていたM氏だが、正副委員長選挙後は常任委員もやめ、自治会活動の一線からは退いていた。この背景には、学生自治会運動の中で多くの不条理を目の当たりにし、過度の負担もあって、不満をためていたことがあった。そして、そこに、女性問題がからみ、M氏が、自治会への攻撃をちらつかせて、女性を脅し始めたのである。

 当初、S氏にこれを相談すると、S氏は、明確な違法行為であることを指摘し、実際には何もできないだろうと話していた。ところが、予想に反し、赤旗まつりの4日後の11月11日、代議員大会に、M氏が「学生自治会解散提案」を出すことになる。

 11月8日に、ツイッターで、M氏の提案が明らかになると、党機関はただちに党員を集めて意思統一を行い、事情を話して代議員を100人集めて提案を否決しよう、という方針を指令した。それにしたがい、自治会室で私が執行部員にたいし、現在起こっていることのとらえかた、そして、提案を100人の代議員をもって否決することを提起し、意思統一した。そこから、電話で、会議に出席していない執行部員にも、事情を話し、執行部員1名につき5名代議員を集めよう、と協力を呼びかけた。代議員の組織は当時の委員長が担当し、パソコンのエクセルデータに打ち込んでいった。このとき、私の周りでは、クラスの代議員がきてくれることになったほか、東大医療ゼミでも代議員大会に行こうとゼミスタッフなどからメールが流された。

 11階は、活動家の詰め所となり、応援に派遣された当時の全学連委員長や書記長、私、学生党員などが、入れ替わり立ち替わり詰め、組織状況や代議員大会の準備状況を専従に報告し、専従の指示を仰いでいた。支援にきている全学連委員長が、気がつくと30分ほど自治会室からいなくなる、ということが、前日の10日には深夜に至るまで何度もあった。自分も同様であった。こうした中、10日夜、自治会解散提案が、自治会室に提出されないまま,公示に定められた提出期限を過ぎようとしていた。公示では、提案は前日までに自治会室に提出しなければならないことになっていたのだ。これについて、自治会の現場では、受理できないという主張が支配的だったのに対し、都委員会は、それは公示の趣旨に反しており、受け取って審議・議決に付すべき、提案を言論で粉砕するべきだと主張、9時頃に、現場の党員や私に指令を出し、急遽、前日の10時頃から、「やはり提案を取り扱うべきだ」と全学連委員長や私たちは主張した。これに、代議員大会の議長をつとめることになっていたE常任委員はじめ多くの執行部員は強く反対したが、翌日、私と自治会委員長が、提案の審議を求める動議を出すことで決着した。

 前日夜、民青駒場班を担当していた、党東京都委員会のH氏が、代議員大会に参加を呼びかける自治会正副委員長名のビラを作ってくれた。これを全学連書記長が作成したということにして、深夜に印刷し、当日11日朝に3000枚配布した。この配布には、全学連・都学連の書記局員も参加した。また、H氏は、代議員大会への参加を訴える自治会の立て看板も作ってくれ、上級生を含む学生党員が貼り合わせ・設置をしてくれた。この立て看は、民青同盟のビラなどとフォントがそっくりで、長くは出せなかったので、代議員大会終了翌日には撤去した。

 11日未明、私は、T氏、S氏と落ち合い、意思統一することにした。11階は、「活動家が寝ているから」ということで、私の幡ヶ谷の居室にあつまった。T氏から、あくまで学生を信頼するように、提案の核心は民青批判、私たちは追い詰めている、などと情勢分析があった。T氏は帰り、私とS氏でその晩は自室に泊まった。

 翌日、代議員大会の昼の部終了後、H氏から、さらに代議員を呼びかけるためのメール文面をもらい、それを執行部メーリスやクラスメーリスに拡散を希望する旨添えて流した。夜の部では、全学連委員長が、議場の発言をT氏にメール送信し、また、私の発言を練っていた。余談ながら、このとき、当時の委員長が、その立場ではあるまじきのろま発言を議場にしたことをいまでもよく覚えている。私は、夜の部の休憩時間に、当時の全学連委員長・書記長に会場の隣の762教室に連れ込まれ、絶対に民青同盟員がだれであるかを言ってはならないこと、反共攻撃を跳ね返す発言を、中国人である自分の立場も生かして行うこと、などを命じられた。最終的に、M氏の学生自治会解散提案は反対多数で否決された。

 学生自治会解散を訴えたことは、学生の利益に背くもので、許されざるものだった。特に、元交際相手への脅しのために、代議員大会を利用し、多くの学生を振り回したのは糾弾されるべきである。しかし、提案で述べられていた学生自治会の運営への批判はもっともなものも多かった。当時の東大教養自治会執行部が、批判を受け入れる素地がなく、学生から離れ去った感覚で自治会運営をしていたことが、この提案を許したと言ってもよい。

 翌日、代議員大会の報告ビラをまいた。これも、12日未明にH氏が11階で作り、私のUSBメモリで渡し、私が自治会室で印刷したものであった。H氏が作成した立て看はこのときF常任委員とともに撤去した。

 S氏は、この騒動後、「駒場ではこのような攻撃は1年に1度くらいある」と私に言ったが、これは、開き直りであり、非科学的な態度であると言わざるを得ないだろう。「攻撃」に対する何重にも倒錯した共産党活動家の見方が反映されている。

 この代議員大会後、再び自治会正副委員長選挙の時期が回ってきた。今度は私が委員長を努める番であった。専従と、富ヶ谷のフレッシュネスバーガーで次の副委員長候補について話し合った。「大衆で有力な人はいないよね」というS氏の確認に始まり、候補は2人の党員にしぼられていた。以前私はA君を推し、専従もそれを認めていたが、私はこのとき、B君にすることを主張した。代議員大会で重要な役割を果たし、高い能力を有していることもわかってきたからである。専従ははじめ難色を示したが、私の説得で、B君にすることを認めた。それが、のちのZ副委員長である。

 駒場祭前、T氏やS氏から、学生自治会の値打ちを駒場生に共有させるための論文を書こう、と持ちかけられ、11月15日の週に11階で内容の検討会議を開き、それに基づいて執筆を開始した。だが、結局、私の執筆スピードが遅かったので、駒場祭中だっただろうか、都党8階の小会議室に呼ばれたとき、すでに第1,2章はT氏の手によってできており、私に確認を求められた。私はその場で第3章を書くように求められ、学生自治会の将来展望を書いた。個人名で出す予定だったが、執行部に内示せずに出すとまずいだろう、ということで、会える執行部員には確認してもらうことになった。私は自転車で駒場に行き、L常任委員に見てもらうことができた。レイアウトなどは一切をS氏が行ったが、フォントが、私がいつも使っているものとまったく異なり、その処理のために手を煩わせた。私はいつもHGP創英角ゴシックUBを用いているのだが、そのフォントがS氏の環境ではなかったのだ。駒場祭3日目の夜、全学連・都学連役員や上級生党員も都委員会に駆けつけ、最終確認を1階のロビーでし、印刷製本を地下印刷室で行った。高速バージョンのリソグラフがおいてあり、さすが政党の印刷所だ、と思ったものだ。

 翌日、駒場11階のマンションの下に、製本された論文が段ボール入りで届いたので、学生会館から借りた台車に乗せて1号館正面まで運んだ。ただ、印刷製本をどこでやったのか執行部内で疑問が出るとまずい、というので、執行部メーリスに、学生会館で印刷製本をやるから手伝ってほしい、というメールを形式的に流し、あたかも学館で何人かで印刷製本したかのように見えるよう工作した。こうして、駒場祭終了翌日の11月24日、論文「駒場生の財産―学生自治会を守り発展させよう」が駒場に撒かれることになる。初日(午前中は休講なので昼)の論文配布に参加したのは私とL常任委員で、配布し始めると、掃除夫の方から、いま撒かれると翌朝の回収が大変なので、どうせなら翌日に撒いてくれないか、と言われ、L常任委員とも相談の上、それにしたがい翌日から配布することにいったんした。ところが、これをS氏に報告すると、絶対に今日から配布して、反動勢力に本気を見せ、学生をびっくりさせるべきだ、と強く言われ、L常任委員に「今夕回収することにして、撒きましょう」と改めて言って、その日は撒いた。もちろん放課後に回収した。ところで、そもそも、共産党東京都委員会にとり、この論文の役割は、(1)自治会解散提案否決後のいま、駒場生に学生自治会の値打ちを徹底する (2)本気を示し、安易な対立候補の出現を防止する―ということだったことを記しておきたい。

 選挙公示後、同じくフレッシュネスバーガーで、私と、のちの駒場学生支部の支部長を務めるC君とで、S氏から選挙戦術の指導を受けた。

 11月から12月にかけて行われた選挙で、X、Zがそれぞれ委員長、副委員長に就任した。

 12月、キャンパスプラザB109で昼休みに行われた民青駒場班のランチタイム交流会で、翌年班長に就任する、自治会常任委員も努めるA君が「自治会楽しくないよ~」と冗談半分で発言し、私が向きになってそんなことないだろうと否定したことがあったが、今思えば、このやりとりは、そういった率直なことが言い出せないほど、学生自治会は特定の価値観のもと硬直し、停滞していたことの現れであった。

 12月の自治委員会直前、降板した前委員長が、次期自治会常任委員に立候補しないと騒ぎ出したことがあり、11階でS氏から「自分の扱いがひどいという話題を振るのが下手だからこのような挙に出ているのだ」と情勢分析を受け、11階に前委員長、学生支部長、私で集まり、私から、前委員長に対して敬意を欠く態度があったことを詫び、立候補を要請した。前委員長は受諾した。

1月頃、S氏と駒場学生支部長と私とで民青の勧誘対象者の自宅訪問を行ったことがあったが、そのとき、S氏から、次期人事について、民青駒場班班長にすえるA君は任務が大変になるから自治会の仕事は少なくして欲しい、支部長にすえるC君は班長に比べれば任務は少ないので大丈夫、との内示を受けた。民青駒場班班長は、新歓や班運営を一手に担うので、毎年つぶれてしまうことが多いのだそうだ。私からすれば、無駄な会議での上からの意思統一をなくせば時間的にも精神的にもだいぶましになると思うのだが。

この前後、当時の全学連書記長主催で、民青活動家の飲みが市ヶ谷で行われ、参加した。このメンバーでの飲みは2回ほどあった。非常に楽しかったことを覚えている。

 2011年2月10,11日、日本共産党東京都委員会青年学生部のよびかけで、自治会正副委員長と青年学生部員の合宿が行われた。10日、都委員会9階大会議室に集合し、市田忠義書記局長の『党づくりの苦労と喜び―地区委員長のあり方を考える』の本を読み合わせ、感想を出し合い、指導者論を学んだ。本書には指導者として心がけるべきことが多く書いてある、地区委員長向けの本に見えるのになぜ赤旗に多くの広告が出ているのかよくわかった、諸決定に中身があるのが共産党の魅力だから決定をよく読むのが重要という指摘は正しい、などと自分が発言したことを覚えている。その晩は中野区のT邸に泊まり、S夫妻と鍋をつついた。Z氏と「T文庫」をむさぼるように深夜まで読んだ。自分の父母の共産主義観などを紹介したのを覚えている。11日は、ふたたび都委員会9階大会議室で、自治会運動について講義を受けた。自治会運動論についても学び、対政府闘争を重視するよう強調された。対政府闘争を放棄すれば、学内要求の実現の展望が見えなくなり、道理のある活動ができなくなる。また、対政府闘争を重視すれば、その政治的支柱となる党員同盟員が学生から権威として見られる、ということだった。2日目の夕方は、多摩センター駅で行われている民青中央大学班の新歓の応援に向かい、凍える寒さの中、受験生と対話した。対話活動の終了後、同日放送された「沈まぬ太陽」を都委員会の和室でZ君とともに見て、合宿は終了した。沈まぬ太陽に描かれた、恩地の不屈性は、私の考える、70年代以前の、よき共産党のなかで存在したものだろう。

 また,別の機会に,日本共産党東京都委員会9階大会議室でT氏やS氏から,自治会運動低落の歴史について――「T史観」と私とZ氏でいっていたものだが――ホワイトボードをもちいて解説を受けたが、その内容は、1970年代はニセ「左翼」をもちいて学生戦線の分断を図り、80年代は原理研を用いて学生自治の破壊をし、このころ多くの自治会がなくなった。千葉大は悲惨で、民青に原理研のスパイが入り込んで大変だった。90年代はソ連崩壊に伴う「全学連式の要求運動は古い」論で攻撃が強まった。また、支配勢力が意識しているかはわからないが、高学費と就職難も学生のエネルギーの発揮を大きく妨げている。この結果、全学連・都学連は今のありさまである、というものだった。当時はこれに大いに納得したものだった。

 2月21日~23日、東大教養自治会の執行部合宿を行った。専従と相談し、この3日目に、1年生執行部員に、民青同盟員が執行部員を務めることに理解を得てもらう作戦をとることになった。役割分担し、正副委員長は、思想信条の違いを前提にして一致する要求で団結するという自治会の組織原則を表明し、民主的討論を保証する立場にたち、ほかの同盟員執行部員が、民青同盟員としてどのようなことを学んでいて、それを自治会の活動でどう生かしたいのかを話し、民青同盟員として執行部活動に加わることへ理解を求める立場に立つ、ということにし、そうして話し合い、1年生執行部員の理解を得ることができた。しかし、日本共産党の存在を隠蔽し、党派的指導介入の問題を構成員の思想信条の問題にすり替えるなど、謀略性の強いものであった。

 3月1日頃だっただろうか、党中央委員会青年学生部のYと名乗る専従職員が11階にやってきて、全学連大会について意思統一したことがあった。出席者は、Y氏、S氏、Z氏、新駒場学生支部長、私で、信州大学で「反共攻撃」が起きており、全学連大会が荒れる可能性がある、討論などで援助がほしい、ということだった。「信州大学で今起きていること」という旨題された文書が提示され、会議終了時に回収された。共産党の大衆団体関係の会議では、決定的な証拠になりうる文書を党機関が回収することが多い。Y氏は、そのとき、自分の立場について、全学連グループの担当で、大衆運動に党の方針を押しつけようというのではなく、全学連で活動している党員の党員としての活動や成長をサポートしている、と述べていた。信州大学では、「反共攻撃」をしている自治会役員が全学連大会の代議員に選ばれず、全学連大会は「荒れる」ことはなかった。


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