日本共産党による自治会に対する組織的な指導・介入の実態 3/4


東京大学教養学部学生自治会の全学連脱退の中心にしたX氏による、自治会に関与していた日本共産党との決別に至った経験と心の変化を記した手記です。資料によると2012年3月28日の「常任委員会資料」に添付されていたもののようです。長文ですので4分割して公開します。


登場人物

・学生側:X氏、Z氏、Q氏、M氏、A氏、B氏、C氏、D氏、V氏、L氏、J氏、E氏、F氏

・日本共産党及び関連団体関係者:T氏、S氏、I氏、N氏、II氏、H氏、Y氏

*国政選挙への立候補歴があったり、公党及び関連団体の役員であったりするため、基本的に「準公人」、あるいは「みなし公人」と捉えられてもおかしくないが、ここでは個々人のプライバシーを配慮してアルファベット表記とする。これらがイニシャルであるかは明言しない。なお、国会議員や地方議員に関しては今回の一連の出来事に関与がない範囲では氏名を明記する。


 2011年4月、新学年の新歓が本格的に始まった。このころ、現学生自治会委員長を努めることになるQ氏が民青に加盟した。

 4月は、統一地方選挙―共産党は「いっせい地方選挙」とよぶ―があり、居所の渋谷区議選で、日本共産党新人の田中正也氏を応援し、後援会活動に取り組んだ。4月24日、田中氏は初当選を果たした。

 このころ、学生自治会では、3・11の被災者支援活動をおうせいに打ち出し、多くの新入生が結集するに至った。こうしたなか、Q氏を含め、例年よりも多くの新入生が、学生自治会執行部入りしてくれた。このときも、もちろん、専従と緊密な連携をして常任委員をオルグしている。一度、11階で、新たに駒場支部担当に着任したN氏と意思統一の会議を開いたことがある。N氏曰く、この会議の目的は、以下の通りであった。学生運動の新たな担い手を確保する展望を見いだすこと。学生の立場に立ちきって学生運動を引っ張れる人は、大衆にもいるだろうが、党員同盟員の方がそうした人が多いだろうから、リストアップして系統的に常任委員にする必要がある。―ということだった。

 また、S氏にこのころ、「委員長をP(共産党員の略称と思われる)にするには、この5,6月の常任委員オルグで何としても多くの同盟員を獲得しないとだめだ。今回でオルグしたM(民青同盟員の略称と思われる)の中からしか委員長は出てこないと考えなければならない。あとから誰かがすごい党派的になって、書記局員としてばりばりやって、プレゼンスを上げてゆくというのもありえるけど、その可能性は低い。1人でも多くのMを常任委員にオルグしろ」と厳命されたことがある。

*下線部は東大全学連研究会追記

 ところで、4月に、常任委員を務めていた元2年生が進級して新3年生になり、任期を失うことになった。しかし、その当時の常任委員会は、人員不足などを勘案し、自治会規約の任期規定も参考にして、この人たちの任期延長を決定した。これを都委員会は問題視し、決定の撤回と、自治委員会での謝罪とを、S氏を通して求めてきた。執行部での決定を突然覆せば執行部の信用を失うことをおそれた私は、両者の間で妥協して、自治委員会で口頭で謝罪の報告を行い、それを都委員会に報告して、この一件をすませた。

 6月、再び学生自治会委員長選挙の時期が近づいてきた。私は続投だが、副委員長で1年生を抜擢しなければならない。基本的には、このとき副委員長を務めた1年生が委員長を務めることになる。専従は、2009年に駒場で女性同盟員への脅迫などの「反共攻撃」があったことから、女性に対しては必ず謀略攻撃がかけられるだろうと断じており、当初から、委員長にできる人物は、男性の1年生同盟員3名だと決め、私とZ氏に、この3人のプレゼンスを上げておくように指導した。日本共産党では、党員同盟員を正副委員長に据えることを非常に重視しており、そのために、党員である現正副委員長に、次の正副委員長候補に役割をどんどん与え、執行部の中で突出させ、自然に次期正副委員長として理解が得られるようにさせていた。ところが、女性のQ氏が、自治会副委員長ひいては秋から自治会委員長をやりたいとS氏に相談したのだ。急遽、6月7日だっただろうか、S氏、駒場学生支部長、Z氏、私で、擁立会議を開いた。このとき、S氏から、2009年の謀略攻撃について、都委員会指導部と中央委員会青年学生部に宛てた報告書を読ませてもらった。私は、(1)彼女の決意は固く、謀略に対する耐性も強い(2)駒場の情勢が反共攻撃を許さない(3)彼女は非常によく活動に参加しており、執行部内情勢ではQ副委員長が自然―という3点からQ氏の擁立を推した。他の学生2名もそれに賛同した。専従は当初難色を示したが、最後は折れ、Q副委員長でゆこう、ということになった。ただ、必ず謀略を仕掛けられるだろう、その覚悟をしなければならない、とS氏は主張した。早速、9日の代議員大会で昼の部議長を任せ、プレゼンスを向上させ、学生の前に姿を出すことを決めた。

 代議員大会前日の8日、T氏が、成績開示の改善を求める署名を提起し、署名用紙を作成して、S氏を通して私に提案してきた。私は、もう前日であり、とても明日の代議員大会で提起することはできないと難色を示したが、主体の都合でやめるべきではない、執行部への提案では党員に意思統一しておいて賛成してもらうようにするから、と何度も電話が掛かってきたため、私は折れ、提起することにした。夜19時頃、Q氏に会い、支部でこれを執行部に提案することになったから、あなたから提案してほしい、と強引に依頼し、Q氏から提案するというスタイルをとり、執行部で承認され、翌日の代議員大会の資料封筒に印刷して入れることになった。これも、Q氏の執行部内のプレゼンスを上げるための演出であった。

 6月末の選挙で、私とQ氏が、それぞれ正副委員長に選出された。このとき、常任委員も務める学生支部長が、党機関の意思統一を経て、選挙管理委員会で、投票総数増加のために奮闘している。

 7月14日の自治委員会で、常任委員選挙の投票用紙の定数の表記を誤ると言うことがあった。その直後、執行部で集まり、当面の対応を決めたが、党機関がこれを問題視し、改めて10月に自治委員会を開催して再投票するように電話で命じられた。私が、すでに執行部で対応を決めたところだ、というと、「勉強し直したと言えばいい」と返され、その通りに、Q氏とともに、7月21日常任委員会に「規約等を勉強し直した結果だ」と対応変更の提案をしている(私はその常任委員会には出席していない)。対応変更は執行部で承認された。

 ところが、こうした党への盲信に風穴を開けたものが7月に出現した。奇しくも、党自身が発表し、崇拝してならない第三回の中央委員会総会決定であった。その現実離れした空想じみた内容に、私は衝撃を受けた。党中央の正気を疑った。周囲の党員とも、この決定はひどい、と話し合ううちに、虚構が少しずつ崩れ始めるようになる。ところで、この「虚構の崩れ」は、周囲の党員と話し合うことなく、専従に意見を言うだけでは、認識は発展せず、起こることはなかっただろう。そして、党機関が、専従の監視下にない、現場党員どうしの話し合いを恐れる理由もここにある。

 9月、専従は、冬学期の学生自治会の活動を計画する会議の開催を言い出し、日程調整に乗り出した。私は、9月末の民青のスタディツアーまで山口にいたのだが、どうしてもスタディツアー前にやりたい、東京との往復運賃を出すからきてくれないか、と懇願された。共産党の会議好き極まれり、と思った。私は、運賃を出されたとしても、休養を確保しなければならなかったので、その日程は丁重に断り、10月はじめに行われることになった。10月はじめに、その会議は、党東京都委員会中会議室で開かれた。T氏、N氏、Q氏、Z氏、学生支部長、都学連役員2名、私が参加した。学生新聞東京大学版の論文を読み合わせた。都党で開かれる作戦会議では、参加者の意識を党的な意味で高めるためか、最初に政治的論文を読み合わせ、政治路線の意思統一をすることが多い。学生新聞とは、日本共産党が学生党員向けに学生新聞社から発行していた新聞で、各大学版を発行して学内に机上配布し、大学で党の論文を普及させていた。このとき読んだ論文は、民青同盟東大駒場班班委員会(班で選出された指導部を班委員会という)の名前で出されていた、東大生の生き方に関するものだったが、Z氏がT氏に「これはどこまで学生が書いたんですか」と聞くと、「専従が班員から聞き取った結果を基にして書いて、班委員会に確認してもらった」との答えだったと記憶している。私の論文と結局は同じで、党・民青の学生支部・班名で出される論文は実際には東京都委員会専従の作文だと見てよいだろう。その会議では、東大教養自治会の冬学期の日程を確認し、全学連や都学連の行事予定表も渡され、日程の調整をした。クラスアピールを集める方針、大学予算署名を2000筆集める方針が決まった。このとき、T氏から提案があった。給付制奨学金の実現を文科省が概算要求に盛り込んだが、これが実現すれば戦後初の画期的なことになる。また、学生に、署名で要求を実現したという経験をしてもらうチャンスにもなる。大学予算署名に給付制奨学金の実現を盛り込もう、というのである。議論の結果盛り込むことになったが、あくまで現場で決めなければならないとT氏が言い、会議終了後翌日頃までに、すべての全学連中央執行委員に、電話で意見を聞き、承諾を得ることが確認され、出席していた全学連・都学連役員によってそれは実行された。この結果、一貫性に欠ける不思議な「2項目署名」ができあがった(T氏の提案もあり,私は、大学の力で震災復興を、というラインで2つをまとめることを試みたが)。私は、趣旨はいいと思うが、2つ署名をすると力が削がれて両方ともだめになる可能性が高い、1つにまとめるのも難しいから、よく考えなければならないと主張していた。

 ところで、9月4日、もう一つの会議が同じ部屋で開かれていた。参加者は、T氏、S氏、N氏、私である。最初に、その週の常幹メモを読み合わせた。そのとき、T氏が、都委員会発行の、タテ線指導メモというA4数ページのものを持っているのを見たが、共産党の上から下への大量指導の一端を見た気がした。また、都内の大学の学生分野の到達を確認した。これは、○○大学で4月以来党員○人…という非常に詳細なもので、これほど詳しく聞くことは初めてだった。実はこの頃、私の心が党から離れつつあるのと反比例するように、党の側の私の重用の度合いは高まっていった。そろそろ駒場キャップを降りるので、全学連・都学連役員として使おうという計画だったのだろう。この会議の内容に戻る。

 最初に、7月の自治委員会で予算修正をしたことがとりあげられた。T氏は、これを猛烈に批判した。自治委員会で決めたのは大問題だ。規約に違反している。代議員大会で決めたことを、自治委員長と自治委員会が共謀して覆したことになる。これではQさんが委員長になれない。反動勢力がいまの駒場自治会を攻撃するには、規約違反くらいしかない。必ずこれをやり玉に挙げてくる。これを指摘したJ君は学連役員として一番重要なことをやったんだよ。君はJ君とこに行って感謝しなければならない。―などなど、あたかも悪意に満ちた決定だったかのように、まったく丁寧に説き起こした。私は、その話はわかったが、うちも悪意があってやったわけではないことを理解してほしい。財政担当者が決算・予算作成を怠り、代議員大会できちんとした予算が決定できなかった。そのなかでの窮余の策だった。財政担当者には厳しく叱責し、責任を追及した。と言うと、さらにT氏は、財政問題は組織の長がイニシアチブをとるべきで、借金まみれの都委員会でも、財政対策会議は若林委員長がしきっているんだ。財政担当者の責任ではない。と私の委員長としての責任を追及した。党機関が、自治会の規約上のミスなどを批判するとき、まったく丁寧に説き起こし、反動勢力の攻撃に言及して恐怖感をあおることは常套手段である。私からすれば、規約違反だというのはその通りで、私も是正の必要性を認めたが、一言でわかる話をここまでねちねちとやられるともう議論する気も起きないというもので、途方もない無力感が私を覆った。「大衆団体」の党員活動家はこのようにして思考停止の道をゆくのである。

 つぎに、都学連・全学連の活動に対する意見を求められた。私からは、もう少し充実した政策活動をするべきだ、また、ビラなど制作物のレベルアップをするべきだ、といい、T氏もそれに同意した。ここで、8月1日に行われた都学連国会要請で、Z氏が都学連執行委員として配布した国会要請の意味意義に関するA4判2ページの論文のコピーが渡され、読むように言われた。「君はこれどう思う?」とT氏に尋ねられ、私が答えると、T氏はその論文の批判を始めた。学生自治会の組織原則について誤謬がある、要求実現に迷いを持ってはならないとはどういうことか、学芸大の学生がこれを読んで動揺している、などが主要な内容だった。T氏によれば、その論文は点数をつけるとすればおよそ合格ではなかったようだ。40点という点数を言った覚えがあるがやや定かではない。しかし、その論文は、部分的に誤りはあっても、全体としては国会要請についてよく理解できるものだった。T氏が、Z氏の論文をぼろっかすに批判するのにはまったくついていけなかった。つづいて、Z氏の規約解釈論や、党全学連・都学連グループへの意見書などに対しても批判を始めた。私に対して、Z氏とこういうことについてよく話し合うか、と尋ねられた。私は、都委員会がZ氏とその周辺を引き締めようとしているのではないかと感じた。私は、「そんなに話さないです」と答えておいた。その後の専従の話しは、引き締めという予想の的中を示していた。Z氏の批判を一通りして、T氏は時間がきてしまったので、会議を中座した。のこったS氏が口を開いた。「自治会室とかで、党員同士で、全学連・都学連とかのことについて話さないでほしい。全学連・都学連にどうこうしてほしいと言うことがあれば、党に言ってほしい。」「民青の発展に責任を負っているのは党支部。民青の問題は党支部で解決しなければならない。支部会議の外で、党員同士で、民青の結集の問題について話すのは責任放棄。X君は民青の結集の悪さとか時間のルーズさとかに不満があると思うけど、民青には民青の闘い方がある。自治会委員長とか、活動に忙しい人は、民青はなんであんなに楽してるんだ、と思うかもしれないが、民青だって民青なりにがんばっている。民青は活動の担い手の入り口。Z君は、党でがんばるのはZ君とC君(支部長)とX君の3人しかいないといっていたけど、ほかのA君、D君…のがんばりがなかったらいまの民青班はないんだよ」といった旨のことを言った。S氏も時間が来たので中座した。

 のこるはN氏と自分になった。私は、「全学連・都学連のことについては党に言え、といわれたので、早速」といい、ある文書を呈示した。その前後、都学連役員が、東大教養自治会の活動に道理のない批判をしており、それを批判した文書だった。都学連の役員のうち数名は、5月以降、「大会決議にない震災救援活動ばかりやっている」「代議員大会決議に書かれていることをやってない」などという道理のない批判を東大教養自治会の活動に対して行っており、当時の正副委員長は憤慨していた。わたしからは、都学連役員の発言などを挙げ、道理が全くないこと、東大教養自治会の活動実績を挙げ、東大教養自治会は批判される筋合いはなくむしろ評価されてもいいくらいだと言うこと、を指摘した。また、そのなかで、私のひとつ前の委員長が私の個人攻撃を行っていることを批判した。これに対し、N氏は、党員がこのような行動に及んでいることを党として申し訳なく思う、と詫びた。この人物について、日本共産党から私は2度謝罪を受けたが、ついぞ本人の口から謝罪の言葉を聞いたことはなかったのが非常に残念である。ただ、その文書は、表現に過激な部分があったため、N氏から、書き直してほしい、そうしたらT氏に渡して党として対処を始める、といわれた。私は、その後多忙のため結局書き直すことをしないままとなってしまった。

 この会議終了後、自治会室に戻った。自由な議論を制限するべきではない、党の立場は誤っている、とその場にいた党員と話し合った。

 10月、T氏から繰り返しクラスアピールの到達を尋ねられ、精神的に大きな圧迫になる。聞かれる度に、「土日に追求しますので…」「今把握していませんが、来週には執行部員に聞きます…」などと言葉を濁した。

 10月頃から、私はT氏やN氏から会議に呼ばれることが多くなる。このころ、私が支部会議に出ないのを補うため、党と自治会活動をつなぐ場として、N氏と私の会議を週に1回持つことにしよう、とT氏、N氏から提起された。すでにこのころ、私は、党の指導から脱して自由に自治会運動を発展させたいと考えていたので、乗り気ではなかった。結局、この「党・自治会連携会議」は2回しか開かれなかった。1回目は、11階で、10月最初の都委員会で開いた会議での確認事項をもとに、自治会の到達を確認した。2回目も、おなじく11階で開かれ、内容は大体同様であったが、その会議の最後に、T氏から、「絶対に人に言わないでほしい」と念を押された上で、全学連委員長をやってもらうとしたら、どう、と尋ねてきた。私は、内心、絶対にやりたくない、と思っていたので、留学もしたいし、学業に集中したいので、厳しい、と答えた。

 10月30日、都委員会の主催で、東大本郷の自治会再建の構想会議が都委員会中会議室で行われた。T氏、N氏、S氏、全学連書記長、都学連書記長、元東大教養自治会委員長、駒場学生支部長、前駒場学生支部長、私が参加した。都委員会は、今年から来年を、本郷の自治会の再建のチャンスと見なし、本郷自治会再建の方針を打ち出した。私はこの会議を15分で中座したので詳細はわからないが、「東京大学の院生自治・学生自治を考える会」(東学会)は、東京都委員会の自治会再建の方針と関連がある。なお、この会議には3人の欠席者が出たが、共産党の秘密会議は概して出席率が悪く、遅刻率が高い。これは、構成員の深部のモチべーションの低さから来るものであろう。

 10月、青年大集会が行われた。この集会にみられる、日本共産党とその指導下の「大衆運動」団体の、欺瞞に満ちた市民運動観にますます辟易した。青年大集会というなら、本来なら、真に自主的に若者が全国から集まり、マスコミに大きく取り上げられるようなうねりになるべきである。しかし、実態は、日本共産党の強いイニシアチブの下の党派的な集会であり(一時共産党HPに青年大集会が紹介されていたこともあるし、党中央大会議室で青年党員同盟員向けの学習会〔準備会〕が行われたこともある)、オルグの場という位置づけで、実際の参加者も党・同盟関係者ばかりで、参加した党員は「まるで同窓会だった」という有様、当然マスコミにも報道されない…それなのに、青年が要求を持ち寄って…などとあたかも幅広い国民の自主的運動かのように言うのであるから、もはや手のつけようがないお粗末な自己満足のための茶番としか言いようがない。このような意見について党は向きになって批判・否定するだろうが、あのような「大衆運動」が、党派的茶番にすぎないことは当の「大衆」が正しく判断してくれることだろう。つけくわえておけば、本来4800人あつまったのはすごいことである。しかし、そのエネルギーを報道されもしない党派的茶番に流し込んだのは日本共産党である。党がむしろ青年のエネルギーの発揮を妨げていることを自覚するべきだ。

 11月、T氏に、四中総にむけ、学生のイデオロギー状況などを交流したいと呼ばれ、2度会った。会場は両方とも富ヶ谷のフレッシュネスバーガーであった。わたしから、周囲の学生の原発にかんする意識などを述べた。このとき、都党会議の決定をもらい、意見も求められた。しかし、やはり人間というのは不合理なもので、面と向かった人に言いにくいこともある。わたしはこのときすでに党から完全に心が離れていたが、T氏に面と向かって党の方針などへの異論を唱えることはなかった。逆に、早く決別しなければ、自分の心が表と裏とに分裂してしまう、という意識を強めた。また、T氏から、東大から原発ゼロの運動を巻き起こさなければならない、そのトップを務めてくれないか、という話しもあった。わたしは、それが共産党的「大衆運動」の消化戦になることが目に見えていたので、「自分でもいろいろと考えている…」と言葉を濁した。

 11月上旬、Q氏が離党・同盟退会を相次いで申し出た。支部指導部のつきまとい被害にあったためだ。ネクスト委員長の離党に都委員会は強い危機感を持ち,党員の訪問を行い,結集を強めようとした。11月10日夜、私はバイト先の山手ラーメン(駒場キャンパス裏門1分。東大生なら誰でも知る店である)で勤務をしていた。日付の変わった深夜12時20分頃、突然,店にS氏がラーメンを食べに現れた。他に客もおらず、私はS氏と雑談をしていたが、別れ際に、11階に来てほしいと言われ、勤務終了後、11階で深夜2時半頃まで話を聞いた。S氏は、現在の劇的な政治情勢の中、駒場学生支部がばらばらで党員が団結していないことに危機感を持っており、中国共産党との若手の交流への参加をキャンセルして、駒場学生支部の立て直しに着手することにした、と話を切り出した。この晩のS氏は、いつもと比べて、非常に緊張した面持ちで、ことさらに言葉を選んで話していた。私の心が離れつつあるのではないか、という不安がすでにあったのかもしれない。支部で、自治会に対する指導について疑問が出たが、そのときの答え方が不十分だった。支部総会では、H氏が、(1)党員は大衆団体の規約を守る(2)大衆団体の発展のために力を尽くす(3)党員・同盟員を大衆運動の中で増やす―と答えた。しかし、これでは不十分だった、と過去の決定を取り出し、党は、大衆運動の自由な発展を妨げてはならないと書いてある、などと述べた。党だって間違うことがある、といい、駒場寮問題のさいの党支部の対応の誤りに言及した。(党の自治会への指導について)アドバイスだと思っているんだけど、X君はどのように受け取っている?とか、意見を言いにくいと感じることはあるか、とか、そういったことも尋ねられた。また、共産党は、何らの強制力なく、ただ民主的討論だけによって結ばれた組織だと力説し、党にとって、話し合うしか展望はない。自分は怒らないから、X君含め、みんな思っていることを自由に言ってほしい。もう一度支部に団結しよう、とよびかけたい。X君にも周りの党員に呼びかけてほしい。と話し、その晩の話し合いは終わった。私は、終わった後、裏表を言うなら、党こそ、大衆団体役員を務める党員に裏表を強いているではないか、といいたくなった。

 このときのS氏の話は、党内の限界がありながらも、相当真剣な誠意を持ってのぞんだものだったと思う。しかし、それをもってしても、私の党からの決別の固い意志を覆すものにはなり得なかった。結果的に、S氏個人の誠意に応えることができなかったことは残念だ。

 このころ、わたしは、学生自治会に対する党の指導・介入が、自治会運動の自由な発展を妨げ、運動に限界を与えていることを痛感し、これをなんとしても根絶しなければ、学生自治会の発展は得られないとの確信を強く抱くに至った。そして、これを実現するには、いよいよ自分が党から離別する必要があるとの念を強くした。また、共産党本部前の美和書店で『投稿主義者の観念論史観』という本に出会い、その事実と道理に対してあまりにも不誠実な、こじつけと詭弁に満ちあふれた内容に触れ、あらためて党を離れる決意を固めた。私は、二つの文章を準備した。ひとつが、私の退任の挨拶。このなかで、党派的指導介入は不要ということを明確にした。もうひとつが、党に決別とその理由を申し出た文書である。

 2011年12月18日、退任の挨拶を印刷したビラを机上配布し、これを発表した。

 2011年12月19日、放課後、生協学生食堂で、駒場学生支部長と会い、共産党から決別する旨伝え、事実と道理に不誠実である点、人格を尊重しない点という、私が共産党と相容れないと思った二つの点を説明し、決別とその理由を申し出た文書を手渡した。この日、わたしは、大学入学以来1年と9ヶ月にわたって活動してきた日本共産党を離れた。


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