日本共産党による自治会に対する組織的な指導・介入の実態 4/4


東京大学教養学部学生自治会の全学連脱退の中心にしたX氏による、自治会に関与していた日本共産党との決別に至った経験と心の変化を記した手記です。資料によると2012年3月28日の「常任委員会資料」に添付されていたもののようです。長文ですので4分割して公開します。


登場人物

・学生側:X氏、Z氏、Q氏、M氏、A氏、B氏、C氏、D氏、V氏、L氏、J氏、E氏、F氏

・日本共産党及び関連団体関係者:T氏、S氏、I氏、N氏、II氏、H氏、Y氏

*国政選挙への立候補歴があったり、公党及び関連団体の役員であったりするため、基本的に「準公人」、あるいは「みなし公人」と捉えられてもおかしくないが、ここでは個々人のプライバシーを配慮してアルファベット表記とする。これらがイニシャルであるかは明言しない。なお、国会議員や地方議員に関しては今回の一連の出来事に関与がない範囲では氏名を明記する。


学生自治会に対する共産党の指導・介入は道理もなければ学生の利益にもならない

 日本共産党の、対学生自治会の指導・介入は、最初に述べたように,二重の論理からなっている。一つ目が、党の指導性である。党は、党こそ、学生の立場をもっとも忠実に擁護する存在である。党の指導があってこそ、学生自治会運動が正しく発展する、と主張する。また、言外に、党が指導するのは党の自由・勝手、という論も見え隠れする。二つ目が、耳慣れた、学生自治会の現場における、思想信条の自由の尊重である。これは正しい。しかし、日本共産党は現場構成員を通した自党派の支配の維持のためにこれを悪用しているとしか言いようがない。私は、直接的には、この二重の論理の姑息さに我慢できず、党を離れることを決意する大きな要因となった。

 また,党の指導性をまだ認めない,新入党員などに対しては,「党員が勝手に話し合っているだけ」という井戸端会議論を主張することがあった。

 そして、日本共産党による学生自治会に対する指導・介入は、道理がないのはもちろん、実際に有害な役割を果たしている。たとえば、2011年9月末の会議のように、党機関が、現場の構成員に対して引き締めを行うことがある。すると、それを恐れて、現場構成員は、学生の立場でなく、党の目線を伺うようになる。私自身、自治会活動でおおくの改革などを考えていたが、党がどう考えるのか、ということが常に頭から離れず、多くの発想をあきらめてきた。党の目線を伺うだけでなく、ついに党の目線でものを考えることにもつながる。自分の頭で真剣に運動の前途について考えることをせず思考を停止し、党の指導を待つようになるのだ。全学連・都学連役員に強く感じる。全学連など、結集校はすでに数えるほどで、財政は火の車である。ふつうなら、「全学連・学生自治会の値打ちが輝く」などとのんきなことを言っている場合ではない。学生自治会・学連組織の活力を著しく奪っている。そして、党の見解変更が学生自治会の内部に混乱をもたらすこともある。構成員皆が自分の頭で考えればこのようなことは起こらないだろう。党派が現場の構成員を通して指導・介入をするようになると,指導を受けている党員は党派の意見に固執し,現場での本当の議論ができなくなる。

 学生自治会とその連合組織に対する特定党派による指導・介入は、学生自治会の自由で自主的な発展を著しく妨げている。党派的指導の問題を本質をすりかえて覆い隠す「思想信条の違いを超えて…」論の悪用そのものが、学生自治会執行部に本質から目をそらす思考を浸透させる有害な役割を果たし、「お花畑」化させ,自治会運動の学生からの乖離を招いている。

 党は、党内で,指導・介入とは言いがかりで、助言に過ぎない、と居直るかもしれない。では、クラスアピールの到達を聞くのはなんなのだろうか。全都新入生歓迎フェスティバルの参加受付のシーズンには、繰り返し申し込みクラス数の到達を尋ね、電話がけを要求してきたが、これはなんなのだろうか。支部会議で次の正副委員長を決定しているのはなんなのだろうか。助言ではなく、露骨な指導・介入であることは初歩的事実から明らかである。

 私は、指導と介入という二つの語を使っている。なぜか。指導は自治会の活動方針等について指図することをさして使っている。介入は、すでに自治会執行部で決めたことを後から覆すことをさして使っている。指導よりは介入がより乱暴である。

 私は、共産党活動家が、自らの経験を生かし、指導・介入などと無縁に、自治会運動に意見を具申するのは、有益な場合もあると思う。ならば私は思うのだ。正々堂々、89年に委員長を務めて、いま共産党職員をしていますTです、と自治会室に名乗ってやってきて、最近の東大教養自治会のこの点が不十分だと思う、などと言えばいいのである。それが傾聴に値すれば常任委員会で「うんうん、たしかにそうだね」となるであろう。そうでなければ、「これは違うよね。」「ふーん、あっそう」と誤っていると躊躇なく結論を下すだろう。それこそ、自治会執行部が公平に判断し、有用であれば活動にしっかり生かしてゆくだろう。これこそ、本来の意味での助言である。しかし、当然、党の思い通りにはならない。共産党が、このような形をとらず、裏での構成員への指導という形をとるのは、結局自治会を思い通りに操作したいからではないのか。

 民医連や民商など、半ば党派性を売りにする任意組織であれば、まだ党派的指導・介入が許される余地があるかもしれない。しかし、学生自治会は、学生全員が加入し、会費を納付して活動する公的組織であり、特定党派が自分の勝手で思い通りに操作することは絶対に許されることではない。学連組織も同様である。

 とはいえ、共産党員とも共同するのが学生自治会運動の本旨であり、私も、可能ならばそうすることが望ましいと強く思う。善意の党員の活動を保障するためには,「思想信条の自由の擁護」と「党派的指導・介入の排除」の併記が,学生自治会の態度としてふさわしいのではないか。

 ところで,覚えておいて欲しいのは,自治会の現場でがんばる党員は,誰も,最初から道理の無い党派的自治会支配をやりたいと思って,共産党や自治会執行部に入ったのではないと言うことである。私だって,自由と民主主義を守り,平和な世界を実現したいと思って共産党に参加したし,学生の立場でよい学園を創ってゆこうと思って学生自治会執行部に加わったのである。しかし,その善意を,学生自治会の党派的指導・介入に組織的に利用したのは日本共産党である。基本的には,現場の善意の党員は責めるにあたらず,批判するべきは,日本共産党の党機関である。同様に,日本共産党による指導・介入は,現場党員個人の問題だ,もっと言えば,122~123期東大教養自治会の党派的指導・介入云々は,Xの個人的問題だったという論は成り立たない。

 ただし,周囲の学生に確信犯的に嘘をつくようになれば,それはもはや善意とは言えず,批判の対象になるだろう。以前,私は,日本共産党の指導・介入がないかのように執行部員や学生にふるまい釈明してきた。ここに深く詫びる。

日本共産党の体質

 どうして,数ある政党の中でも日本共産党だけが学生自治会に対して秘密手段を使ってまで介入し,わがものとして操作しようとするのだろうか。どうして,現場の党員は,党派的指導・介入を隠すために,平気で嘘をつくようになるのだろうか。これを理解するためには,日本共産党そのものの体質と現場の心理を理解しなければならない。

 日本共産党が,学生自治会を始め,大衆団体を支配下に置こうとする根本には,前衛党理論がある。日本共産党は,日本の労働者階級の前衛であり,一般国民を指導してやらなければならないというのである。しかし,これは根拠のない自己規定であり,学生自治会に対する党派的指導・介入を正当化するものには到底なり得ない。前衛党理論は、「大衆団体」への乱暴な指導・介入を生み、「大衆」を客体化することにより、国民だましの詭弁をふるうようになる。そして,それを党員が疑うことなく実行し,道理のないことに内部から異論が出て修正されることがないのは,路線闘争を否定し、異論の排除を法則的に生み、活力のない一枚岩、上意下達、家父長的指導の党を生み出す民主集中制理論に原因が求められる。

 日本共産党に善意から参加結集する人の心理にも触れておきたい。つまり,どうして,道理のない日本共産党による学生自治会への指導・介入に疑うことなく没頭し,周囲の学生に虚言まで弄し始めるのかということである。これは、およそカルト的な心理だと言わざるを得ない。その内容は3つからなると思う。

(1)形式的正しさへの信頼

 まずは正しくなければ信頼は得られない。唯一日本共産党の正しさを強調されることで、党の路線に強い確信を持つようになる。たとえば、党旗びらきの志位委員長あいさつ(「しんぶん赤旗」2012年1月5日付)のような文章に党員は強く共鳴するのだ。しかし、私は、日本共産党の正しさは形式的なものだと思っている。実際には、政治路線でも、中国や北朝鮮に対する腰抜け、拉致棚上げ論の無様な隠蔽、古くはルーマニア問題など、必ずしも正確な路線を持っているとはいえない。党のあり方については、ますます形式的であり、民主集中制は党内官僚主義を生んでいるわけである。

 そして、共産党は、党の唯一性、さらに言えば、絶対性をことさらに強調する。これが、党員の「盲信」を招く。

(2)批判の運命的拒否

 当然、日本共産党の政治路線や、組織そのものについて、事実と道理をもとに批判されうることがある。さらにひろげれば、国民の支持が集まらないこともある。党指導下の「大衆運動」が発展しないこともある。真に受ければ、正しさの維持は危うくなる。批判を拒否しなければならない。停滞の事実を直視することを拒否しなければならない。しかし、ただ拒否するだけというのは不可能だ。運命的に拒否せねばならないものということにしなければならない。そうして用意されるのが、支配勢力のおそろしい日本共産党つぶし、反共作戦という論である。支配勢力は、日本共産党の前進を恐れている。党の前進を阻むために、誹謗中傷や謀略をしかけてくる。党外の人は、笑い話と思われるかもしれないが、党内では、専従などがさももっともかのようにおどろおどろしく言ってくるため、恐ろしい反共謀略・攻撃の存在を心から信じ、おびえ恐れるのだ。また、これだけでは党員が縮こまるだけなので、逆に、党機関が、謀略は自分たちの活動が支配勢力にとって驚異である証拠だから、謀略を誇りにして活動しよう、と党員に呼びかけることもある。

 この手記に対して予想される対応などその典型例で、Xは公安に籠絡されている、民主的学生自治会をつぶそうと史上最大の攻撃を仕掛けている、この兆候は去年の解散提案に現れていた、日本共産党の「第3の峰」の出現を何としても防ごうと支配勢力が動き出している、共産党の弱点になっている青年学生分野のねらい打ちをして例え第3の峰が現れたとしても長続きしないように策している、などと党機関は風言の限りを尽くすだろう。私の予想が外れることを切に願う。

 そして、党員は、「反共攻撃」への恐怖感にくわえ、図星の批判に動揺することで、批判的言説に耳をふさぐようになる。日本共産党への批判が当てずっぽうばかりであれば、堂々としていられる。しかし、一定理があるために、真正面から向かい合うことをあきらめ、耳をふさぎ、怯え閉じこもってしまうのだ。この報告も、少なくない党員が、その存在自体信じたくないという気分で、おそるおそる読むか、あるいは、恐ろしいと感じて読もうとしないだろう。

 日本共産党やその指導下にある団体が、外部の人から笑われるような牽強付会論文を発表することがあるが、それは、党内向けの、批判的言説の運命論的拒否を助けるためのものであることに留意しなければならない。党は、この報告に対しても、細かい点を恣意的につなぎ合わせたり,議論を巧妙にすり替えたりして、本質から目をそらす反論作文を,全学連・都学連などを通して発表することがあるかもしれない。

 党や指導下の「大衆運動」の停滞を、階級闘争の中での反動勢力との対決の結果、すなわち、運命的なものとするのも同じ論理である。

(3)組織内の人間関係

 とはいえ、事実と道理を前にして、日本共産党の不条理に目を向けざるを得なくなり、維持していた虚構が崩れるに至ることがある。そのときに、素直な離脱の障壁となるのが、組織内の濃密な人間関係である。また、党機関・盲従党員の、離脱者排除の論理への恐怖である。これらの離脱障壁の高さの前に観念し、自分の心の平穏を得るために、ひるがえって今度は加速度的に虚構の沼へ没入してゆくのだ。

 ひとたびこうして虚構の沼に身を没すると、加速度的に嘘の上塗りをするようになり、抜け出すのは容易ではなくなる。自分の人生を否定することにもつながるので、なおのこと困難である。党員は,美しい理想を維持するために思考停止に陥り,批判を運命論的に拒否し,周囲の人に平気で嘘をついてまで正しさを守ろうとし,嘘の上塗りを重ね,虚構の沼を深くしてゆく。

この報告について

 私は、以下のことを勘案して、専従に「他の人に言うな」と言われたことも含め、党外に対しては秘密とされていることでも、あえて記した。任意組織内の「掟」に強制力はないのは当然のことである。また、専従との間で個別に秘密とされた事項も、それは本来の個人間の秘密などではなく、組織的活動の一環である。日本共産党は、党内向けに、大衆運動指導を合理化するために、「党員が勝手に大衆運動について話し合っているだけだ」とすることがある。10月頃に都委員会で開かれた駒場学生支部総会で、支部員から疑問が出たときも、支部指導部からこのような発言があったと聞いている。しかし、ここに記した内容から明らかなように、ひとつひとつの指示約束などは個人間の形をとっているが、その実態は、非常に組織的なものである。井戸端会議などではない。上意下達を旨とする日本共産党ではなおさらである。

 党関係の人物の扱いについては、以下の通りとした。党専従は、所属と実名を挙げた。東大教養自治会正副委員長と全学連・都学連各三役(おのおの経験者を含む)については、職名をあげた。このことによって、その役職を努める人個人が党員であることがわかる場合があるが、学生自治組織の代表職を努める人物であり、相当の公共性があると考え、職名を挙げる選択を避けなかった。以上を務めたことのない人については、名前等を挙げなかったが、所属(学部、学年等)は、一般的には個人は特定できないので、一部言及した。党を辞めた人は、本人の了解を得て、実名を出した。また、特別に了解が得られた人の実名を出した場合もある。党は、手記が個人の所属政党などをあかす結果となっているなどとしてこの点をことさらに取り上げて内外で批判を強めるかもしれないが、それはこの手記の本質的内容に応えない、非常に政治主義的なものであるだろう。

 私が,学生自治会を破壊しようとしているなどと政治路線の問題として批判してくることがあるかもしれない。だが,いつまでも○○系と言われるような自治会が本当に多くの学生の信頼を得て発展できるのだろうか。私が参加し始めた頃の東大教養自治会の停滞状況はなんなのだろうか。いまの学連の惨状はなんなのだろうか。学生自治会から党派的支配を取り除くことで,真の発展がようやくスタートすると私は確信している。

 また,党は,議論のすり替えの一つとして,私に対して分裂主義だとレッテル貼りすることもあるかもしれない。しかし,私は,自分の経験した,政党による乱暴な指導・介入の事実を述べ,批判しているにすぎない。やっていることをひた隠しにしてでしか維持できない「団結」とは何なのだろうか。「お花畑」にしないと維持できない「団結」など,到底真の団結とよべるものではない。ましてや,そのような「団結」は,運動そのものをお花畑の中でしか通用しない特殊なものにしてしまう。

 この手記には、政党による学生の自主的公的機関に対する謀略活動というべき内容が記されている。日本共産党は、この手記によって党の名誉が著しく傷つけられた、と考えるかもしれないが、私はあくまで経験したことを述べたまでである。党の名誉を傷つけているのは、自党の行っている謀略行為そのものであることを思い知るべきだ。党は謀略活動などではないなどと強弁するだろうが、そうであるかどうかは、「大衆」が正しく判断してくれることだろう。おそらく,党は,自らの学生自治会に対する指導・介入を自らも正当化できず,この報告に対してまっとうな批判を加えることもできないだろう。しかし,日本共産党は,全学連・都学連の中心的自治会として,また,党の幹部育成の場として,東大教養自治会を死にものぐるいで党の指導下に置こうと画策し,あの手この手の巧妙な謀略手段を用いてくることだろう。恣意的に私の主張や東大教養自治会現正副委員長の主張をとりあげて,それをねじ曲げて「批判」してみたり,議論を巧妙にすり替えたりしてくるだろう。その際には,党が汚れ役を被らないように,全学連・都学連にさせたり,あるいは,ダミー団体の形をとったり,あるいは有志という形をとって組織に対する批判ができないようにしたりするだろう。しかし,いまは誰もが簡単に情報を発信できるWeb時代である。どう手を尽くしても,秘密にしないと維持できない支配はもう終わりであることを思い知るべきだ。党の現場構成員が、非論理的怒りを乗り越えて、事実と道理に対して誠実な形で国政革新の活動と国民の苦難軽減に貢献する活動に取り組んでくれるように切に願う。

 私の手元には,ここには書ききれなかったまだまだ多数の指導・介入の実態がある。この報告で終わらせることなく,引き続き,厳しく告発してゆくつもりである。


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