(2011年12月19日、X作成)
■日本共産党と「大衆運動」の関係について
私は、新しい日本を作るのは、まっとうな政治と、国民の自覚的な運動だと固く確信しています。しかし、現状の日本・国民運動においては、党派的系列化や路線化、マンネリ化が激しく、社会的影響力も低下していることに強い危機感を持っています。そして、結論から言えば、日本共産党による事実上の「大衆運動」への指導関係をあらためなければ今日の日本民主勢力に未来はないと考えます。
(1)政党による指導は一致点を曲げる
政党による指導は一致点を明らかに曲げています。それが端的に表れているのが、最近の「原発ゼロ」です。一般社会では、原発をなくす運動において、「脱原発」という言葉がもっと一般的に使われています。しかし、日本共産党に系列化された団体は、一部の例外を除いて、そろって、ほぼ同趣旨なのに「原発ゼロ」という別の単語を用いています。なぜ脱原発という言葉を使わないのでしょうか。そこには、党派的な理由しか見えません。また、このこと自体、これらの団体に、党の指導が入っていることをはからずも証明してしまっています。言葉が違っても内容が同じならいいではないか、ということにはなりません。むしろ、原発をなくす運動は「脱原発―一般市民運動」「原発ゼロ一共産党系」という分裂を持ち込んでいます。原発をなくす運動に何のプラスがあるのでしょうか。日本共産党自身と、その周辺の民主団体が「原発ゼロ」という言葉を使うたびに、私は心の底から「原発を、真に撤去し国民の力で、本気でなくす気があるのか!」と悲しみ混じりの怒りが湧いてくるのです。
(2)政党指導下の大衆運動は真の意味で長続きしない
政党指導下の大衆運動は、以下に見るように、真の意味で力を持って長続きをし得ないと考えます。
純粋な要求からでなく、政党の指導から出発する運動においては、「やらされている」という状態に陥りやすいため、現場構成員のモチベーションが深いところで上がらず、すぐに疲弊してしまいます。
また、構成員を党員で固める傾向が強いので、党員の多寡に団体の中心的担い手の規模が左右されやすく、党員が少なくなったりするとすぐに活動が縮小してしまいます。これは、党としては、党員を増やさなければならないと言うことになるのでしょうが、社会運動として明らかな欠陥です。また、党外の人が、役割を発揮できないこともありますし、そもそも、敏感にそのことを感じ取るので、あまり寄りつかなくなってしまいます(女子学生の会などがそうではないか)。
現場大衆団体の構成員の思想停止にもつながります。なにか物事を考えるときに、一般国民がどうといというのではなく、党がどう考えるのか、ということを自ずと意識するようになってしまいます。これは決定的に大衆団体の活力を弱めます。
(3)政党指導下の大衆運動は、「赤い官製運動」と化し、社会的影響力をもちえない
7・2緊急行動はほとんどマスコミに取り上げられることはありませんでした(ただし、志位委員長の党創立89周年記念講演の「東京の2万人集会、静岡の5千人集会、1行も報道しないという姿勢はあらためるべきだろうか」というどうどけは録です。毎日新聞7月3日付に、10行ほどの記事が掲載されているのを確認しています)。
一方、9・19のさようなら原発集会は、新聞やテレビで実に大々的に報じられました。
2万人より多い6万人が参加したから大々的に報道されたのでしょうか。いえ、違います。たとえば、「みんなで決める『原発』国民投票」の活動も、規模は小さいのに、開始前から各紙が繰り返し取り上げられています。
党派党的な運動であるゆえに、マスコミにあまり取り上げられなかったのは明らかではありませんか。むしろ、国民の意識をかなり反映していると思います。実感として、党派的な運動に対する国民の目はかなり冷たいものがあります。なお共産党シフトを敷いているからマスコミは7・2集会、ひまわり集会含を報じないなどと言う論には、残念ながら、私は与することができないということからあらためて説明しておきます。
「官製運動」「官製デモ」といえば、社会からの嘲笑の対象ですが、簡単に言えば、党派運動、とくに日本共産党系の運動は、まったくその裏返しの「赤い官製運動」になってしまうのではないでしょうか。
この点で、私は、政党の前衛意識的な大衆運動の指導、「大衆運動の発展のため力を尽 くす」ことは、大衆運動の党派化を招くことが事実として実証されたので、むしろ否定的です。政党は政治の力で国を変えるべきです。大衆運動とは、(支援、助言の名の下の)指導をするのではなく、相互不干渉・尊重の原則の下に、一致点に基づいて共同することにとどまるべきです。大衆運動は国民のものです。
よく党は運動を正しく発展させるために党の指導が必要と言いますが、運動が間違った方向に行けば、必ず、国民自身の手により、道理に基づいた修正が働くはずです。それが道理の力であり、国民の力だと思います。逆に党がそれをまとうとせず上から指導し始めるのは、真の意味で国民(「大衆」)、道理の力を、信頼していないということでしょうか。
党のイニシアティブ無くして運動が起こらない、または、党が率先して運動を組織しなければならないというのも思い込みです。そのなによりの証拠が、3・11以降の、脱原発の市民運動の高揚です。まさに、自覚的な国民が自主的に運動を始めているのです。日本国民には、人に言われなくても、要求から出発して運動する力が存在してます。それを信頼するべきです。
そして、党の大衆運動に対する指導を許すかどうかは、党ではなく、「大衆」だと思います。重ねて言いますが、大衆運動は「大衆」のもだからです。そして、その答えはもう出ていると思います。まさに、党も国民「大衆」の中で相対的に存在するものですから、その出ている答えに従うべきです。
(4)さいごに
いくつかの事実を挙げて締めくくろうと思います。
①原発をなくすうえで、共産党の指導下でない運動が、真に幅広い国民の参加を得て大きく発展し、力を発揮している。さようなら原発 1000 万人アクション、素人の乱、みんなで決めよう「原発」国民投票、各地の自主的なデモ行進など。一方、日本共産党と系列大衆団体が立ち上げた「原発をなくす全国連絡会」が、運動の党派的囲込みの役割を果たし、また、「赤い官製運動」化し力を持たないのは容易に予想がつきます。そもそも、一致点を大事にした「連絡会」ならば、原発をなくす保守系の団体なども本来組織されるべきでないでしようか。そうではなく、ふだん系列的に共同している団体どうしだけで「連絡会」を組織しているところにこのうえない狭さを感じます。「一党一派の運動に見えなくなった」とTさんはおっしゃっていましたが、実はそこで日本共産党が試されているのだと思います。たとえば、脱原発の国民的運動の中に、党派的指導下の団体を作って囲い込みを始めないかどうか−。
②山口県高等学校教職員組合では、書記局員、執行委員は党員で固めていると言います。組合活動に積極的に参加し、青年部委員を過去めざしていた非党員の先生が、「自分は党員じゃなかったから、書記局に入れてもらえなかった」と言っていました。そこに、「政党からの独立」「一致した要求での団結」はかけらもありません(共産党とその周辺団体が、言行不一致で平気でいること、これもまた私の良識に照らし決定的に拒否せざるを得ないと考えた点です)。また、山口県高校生交流集会教員実行委員会も同様で、20 年来、実行委員会にたびたび出席し、熱く支援してくれる非党員の先生が一実行委員にとどまって一方、一度もあったことのない(つまり集会にすら来たことのない)党員の先生が副実行委員長をつとめているなどします。こちらもまた、教師実行委委員会役員は全て党員で固めていると言います。ただ、その非党員の先生は、それにもめげず、実行委員会でがんばばってくれており、その姿勢にはただただ尊敬の念しかありません。
③長続きしていない、力を持っていない党派的運動の例は数多く、就職難に泣き寝入りしない女子学生の会(要求はあめりつづけているのになぜ消えた? ほんとうに困っていて、「なんとかしたい」と純粋に思っている人が自発的に始め、運営したなら消えなかったはず)、東大九条の会 (ほとんど機能していない。民青・党の「片手間」)、本郷かえるネット(本当に「応援したい!」というのではなく、支部が選挙対策で上級の方針の具体化として始めたのが見える)http://book.geocities.jp/hongo.net/、全国かえるネット(ブログ更新頻度1ヶ月1回くらい・・・。これが、真に「共産党を応援したい!」という若者の運動なら、もっともっと大きく発展しているはず。しかし、党派的指導から出発しているがために、「やらされている」状態に陥っているのが容易に想像できる)、原発 No!学生チーム(原発を無くしたいと思っているIgさんも参加していた当初、当該運動への負担に思って苦痛にしていたことをよく覚えています。「やらされている」という深部の感覚からくるものでしょう)、学費ネット(学生の学費下げたいという願いは切実なのに、学費ゼロネットの運動が停滞している。都学連の片手間、学費を下げたい!と思っている学生を幅広く結集しているとはとうてい言い難い)、原発ゼミ(直接担当している専従の方、支部の方には申し訳ありませんが。他の自主ゼミおおおに盛り上がっているのに原発ゼミがさっぱなのかなぜなのかの理由ははっきりしていると思います。主体のモチベーション不足+限定された担い手+赤い官製運動。ちなみに、来春から、原発問題にかんする自主ゼミが、一般の学生によって企画されています。もちろん、講師(原子力情報科学室の方)も決まり、やる気の旺盛な学生が中心となっているようです。
※共産党員は、もともと社会を変えることに積極的な人が多いわけですから、上から指導され、現場党員が一国民として自発的に自由に運動を起こせばすごいムーブメントが作れると思うのですが。むしろそれを節度をもって促すのが定機関の果たせる役割だろうと思っています。
■日本共産党について
わたしは、日本共産党の不謹実な議論の手法について心の底から疑問を抱いています。
『投降主義者の観念論史観』(中央委員会出版局)所収の論文を全て読みましたが、詭弁やこじつけ、不必要な人格攻撃の多さに恐ろしさを感じました。相手の論文のぼろや勢いで言いすぎた点をつき、極端な結論まで引っ張り批判するなど、本質とは関係のないところで相手の論を「たたきつぶす」手法は不誠実としか言いようがありません。結論が決まっていて、それに合わせようとする、「ためにする議論」も多く、そもそも、共産党とはまともに議論できない、と思いました。
ルーマニア問題の論争も、国会図書館で資料をコピーして追いかけてきました。この中で興味深いのが、「赤旗」評論特集版 1990年6月4日付掲載の新原昭治「なぜ『全く根拠のない中傷』というか―加藤哲郎氏の『反論』に答えて」、と、それに対する反論、「赤旗」評論特集版 1990年6月25日付掲載の加藤哲郎「再びルーマニア問題について」の議論です。前者の論文には、「事実と道理に背くか投票の日本共産党『批判』の手法」という一節があり、加藤氏に党を中傷する悪意があるかのように必死に描いています。これ自体、「異論排除」の雰囲気が強く心から疑問を持たざるをえないのですが、これに対する加藤氏の批判です。
今回の再批判の第三節で、新原氏は、「事実と道理の背く加藤氏の日本共産党『批判』の手法」と題し、私の論文に対して、「学者としてのまじめさを根本的に疑わせる」「自分自身の見解を述べることを回避しながら客観的には日本共産党への否定的な印象をもたらすような論法」「何より加藤氏自身が日本共産党をどう見ているかが問題」「自分自身の責任を回避しながら、全体として日本共産党に否定的印象を与え、客観的に打撃を与えるというやり方は、全くフェアではない」また勇気のない態度「科学的な批判とは縁もゆかりもない『当てこすり』的な批判」などと述べています。
この節は、反論にも値しない部分であり論争の積極的展開を困難にする、不可解な叱責です。私は、ひょっとすると、これは、私のことを「日本共産党もまた『妥当』の対象とする立場」の「反共文筆家」に仕立てあげ、私の著書や学問的な日本共産党の周りの人々から隔離し、ようやく開始された学問的論争を低次元の政争に引きずり込むための、「挑発」ではないかと感じました。
私は、現存社会主義でもよく見られた、また、日本共産党でもかつて見られた研究者や外部の人々の誠実な共産党への疑問や批判や忠言を、「党への攻撃」「反共攻撃」としてしか受け止めない、そうしたスターリン時代の悲しい伝統が、日本共産党には、東欧革命を経た今日でも残っているのではないか、と疑いました。そうした印象を与える新原氏の反批判のあり方を、日本の民主主義の発展を願うものとして大変残念に思います。
新原氏自身はどれだけ自覚しているかわかりませんが、こうした態度こそ、実は、客観的には「日本共産党への否定的な印象」を与え、研究者や読者や国民「反共攻撃」をしてならしめないが、政権政党になったらソ連や東欧や中国のようになるのではないか」という不安を抱かせるものです。
「赤旗」評論特集版 1990年6月25日付 加藤哲郎「再びルーマニア問題について」から
日本共産党による議論の問題点を端的に記した文章だと思いました。私は、日本共産党の不誠実な議論の仕方に、事実と道理、真実を愛する精神を全く見いだすことができないことを決定的理由として、今回をもって、決別することにしました。
一般的な団体個人であれば、向けられた批判はきちんと受け止めるのがふつうだと思います。しかし、日本共産党においては、外部の批判をそもそも受け止めようとさえせず、異論を排除する様式ではねのけるという点に、独善性と、発展の可能性のなさ、思考停止を強く感じます。階級闘争の中で加えられる攻撃だ、いってすべて正当化する論には与しません。
また、異論を述べた人を一方的に「反党分子」とレッテル貼りして、遥かに遠ざけ、人間的にも否定してかかる点には、恐怖を覚えます。日本共産党の中で表面的には異論が出てこないのは、ここに理由があるからではないでしょうか、私自身、このような最終的批判をしてしまえば、日本共産党中央委員会から「転落者」「変節者」と内面的レッテル貼りされ、人間的にも否定されるだろうと思い、踏み出すのに長い時間を要しましたし、現にそうされるだろうと予想しています。しかし、私は、このような批判をしてもなお、現存する日本の国政政党としては、唯一日本共産党のみを支持しています。それでも、異論を述べたことで、異様者・変節者として白眼視され、演説会に行っても有形無形の圧力を受け、東大学生後援会に入れてもらえず、●●さんなどお世話になった先輩や、日高教授の先生方、幡ヶ谷の中村さや区議らとの関係も絶たれるでしょう。人間関係に見られるように、人格が党派により規定されることに疑問を持っています。旧規約の「党員は、・・・だれでも党の上に個人をおいてはならない」の精神は前近代的です。
私は、現在、共産党の運動方針に対し賛成しかねる立場であり、これまでの共同の関係、事実上の党員並みの活動はこれをもって終結させることを言明したいと思います。大衆運動との関係において批判を強めるかもしれません。しかし、国政では日本共産党を支持・支援します。ここに「反共分裂主義者」「自らも、自分が変節者であることを認識している」(本稿6行目をとって)、「弁解を試みているが、その主張の内容を見れば、党に敵対する立場に他ならないことは明らかだ」などとレッテル貼りして、ゼカか1かで見てほしくないのです。なぜ、こういう人と、ゆるやかにつながることができないのでしょうか。赤旗に保守政治家(2009年6月27日付野中広務など)が出現するのになぜ被除籍党員(萩原遼など)は出てこないのでしょうか。後者の人たちは、人生を日本共産党の元で過ごした経験のある人であり、前者よりも党と距離が近いはずです。なのに、なぜ、冷たく高い壁を、そうした人たちと党との間に立てるのでしょうか。度量の狭さを感じます。共産党は、100%賛成でなければ認めないのでしょうか。(それにしても保守層との共同を訴える割に離脱者に冷たすぎるのはやはり一般の組織としては不理解です)。私は、Tさんとも、そのほか専従の皆さんとも、今の政治情勢について、立場は違えど多くの一致点を持つものとして、酒の席でもまた話し合いたいと思っています。党の「つどい」にも顔を出したいですし、民青の学習会などはいい勉強の機会です。しかし、私が日本共産党を支持しつつも批判する限りは、それはかなわないことでしょう。離脱・批判=全部反対ではないのです。非常に残念です。
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